仮設から

       
河北新報の特集記事
 

仙台(1)遠い「日常」/仮暮らし、耐える日々

河北新報2012年02月14日火曜日  
 
<周囲のおかげで>
 
 「周囲のおかげで楽しく過ごしている」と、仙台市宮城野区扇町1丁目公園仮設住宅(131戸)で暮らす
主婦阿部つきのさん(82)。自宅のことを尋ねると懐かしそうな表情になった。
 「広い家だったのよ。ここは狭いけど」。一間4畳半の2DKに荷物を入れた段ボールが幾つも並ぶ。
 夫忠二さん(86)、長男家族と5人で暮らした同区蒲生地区の自宅は、津波で2階だけが残った。「よく
助かった」。忠二さんは感謝する。でも生活は以前より難儀だ。
 避難所を出て、5人で身を寄せたアパートは手狭だった。昨年9月、夫婦だけで仮設住宅への入居を
決めた。
 
<狭い部屋に驚き>
 
 取材で市内の仮設住宅を初めて訪れたのは、6月のこと。部屋の狭さはもちろん、玄関と地面の段差に
も驚いた。ブロックを使い階段を自分で作る人もいた。「ひさしがなく、洗濯物が雨でぬれる」と住民に嘆か
れた。基本的に仮設の構造はどこも似ている。
 今、2DKの奥の部屋に寝る忠二さんは夜、トイレに行く際など、布団と段ボールのわずかな隙間をぬう。
2人が住むタイプは居間と寝室を壁が仕切り、エアコンが居間でしか利かず、寝室は昼間でもひんやり。
居間だけで過ごす時間が長い。 「換気扇を回すといい」と知らされるまで、ひどい結露に悩まされた。鉄柱
部分を伝わり落ちる水滴で床はびしょびしょ。だいぶよくなったが毎朝、それを拭くのが忠二さんの日課だ。
 
<通院もひと苦労>
 
 車が使えない高齢の2人にとって、買い物や通院も大変。仮設住宅の場所は、もともと住宅が多い地域で
はなく、最寄りのスーパーまで若い人の足でも15分はかかる。
 ひざが悪く、移動に手押しのカートが欠かせないつきのさんには「遠い場所」。宅配サービスを利用している。
 週1回の通院は、ボランティアが1日3回運行してくれている無料の巡回バスが頼り。乗り降りはいつも近所
の人が付き添ってくれる。「本当に助かる」と、つきのさんは言う。
 巡回バスをはじめ、入居してから改善されたことも多い。玄関に風除室ができ、手すりも付けられた。団地
の道路も舗装された。
 それでも、かつての生活には程遠い。「また家族5人で暮らしたい」。つきのさんと忠二さんの思いは日々
強くなる。
 東日本大震災から11カ月。以前の生活を奪われた人たちの仮暮らしは続く。昨年6月から市内の仮設住
宅を訪ね歩いてきた記者が、被災者の今を伝える。(佐々木絵里香)=8回続き
 
<メモ>
 
 仙台市内のプレハブ仮設住宅は18カ所、計1505戸。入居者の要望を受け、ひさしの延長や道路
の舗装、風除室の設置といった追加工事が行われた。寒さ対策では外壁断熱材の追加やサッシの二重化も。
現在、夏場に風通しをよくするための玄関網戸の取り付けが進んでいる。 
   

仙台(2)独りの部屋/消えぬ孤独死の不安

河北新報2012年02月15日水曜日  
 
<震災、心細さ増す>
 
 「揺れて、びっくりしたね」。余震があった時、こう声を掛ける人がいない。ひとりぼっち。震災を境に、心細
さが増した。
 無職小沢知子さん(79)=仮名=は、仙台市宮城野区の仮設住宅に1人で暮らす。
 10年近く住んだ借家をあの日、地震が襲った。「半壊」の判定で取り壊すことになった。民間の物件は高齢
を理由に断られた。仮設住宅に入るほかなかった。
 仮設住宅に知り合いはいなかった。近所とはあいさつを交わす程度。たまにイベントに顔を出すものの、家
でのんびりするのが好きだ。
 見回りの保健師に「家にいる人が『孤独死』になりやすいの。もっと外に出てきたら」と言われた。だが、「孤
独だとは思わない」。近くに知人やきょうだいがいる。心配して物資を送ってくれたかつての同僚もいる。それ
でも夜、以前より不安を感じる自分がいる。
 取材では、孤独死について考えさせられた。
 市内の仮設住宅で取材中、その日の昼、1人暮らしの女性が部屋で亡くなっているのが見つかったと知らさ
れた。顔見知りだった。穏やかな笑顔が印象的だった。お茶飲みにも顔を出し、家に閉じこもってもいなかった。
死んだときに1人なら、全て孤独死なのか。答えは出ない。
 
<通報装置に望み>
 
 阪神大震災でクローズアップされた孤独死。仮設住宅では行政やボランティアらが孤独死を出さないよう
見回りを行い、閉じこもりがちな住人に気を配る。自治会役員も口々に「自分の所で孤独死を出したくない」
と話す。
 「私だって孤独死はしたくないっちゃ」と小沢さん。入居後、ボタン一つで警備会社などにつながる「緊急通
報システム」を申し込んだ。周りに迷惑を掛けたくないという思いからだった。
 しかし、機械の取り付けを前に、夜中にめまいを起こして倒れた。意識はあるが動けない。「どうしよう、どう
しよう」。「死」が頭をよぎった。
 知人が偶然顔を出してくれたため、大事には至らなかった。半月ほどの入院後、無理を言って設置を急い
でもらった。
 
<身に染みる厚意>
 
 通報システムが置かれ、小沢さんは「安心した」と言う。その後、近所の人が「遠慮しないで何かあったら言
って」と連絡先を書いた紙をくれた。
 厚意が身に染みた。「この人なら」と初めて自分ときょうだいの連絡先を託した。もしもの時の頼りが、「非常」
と書かれたボタンのほかにもう一つ増えた。
 
<メモ>
 
 阪神大震災(1995年)では、仮設住宅が存続した99年までに誰にもみとられず亡くなった1人暮らしの被
災者は233人に上った。仮設住宅が無くなった2000年以降、災害公営住宅での孤独死は計717人。東
日本大震災でも、仙台、名取、塩釜、多賀城市などの仮設住宅で孤独死が確認されている。 
  
 

仙台(3)新1年生の希望/写真、いっぱい撮るの 
 

河北新報2012年02月16日木曜日
 
<「津波の話は嫌」>
 
「お帰りー」
 4月には自分も乗るスクールバスを迎えた庄子ひかりちゃん(6)。中から姉さくらさん(8)=仙台市荒浜
小2年=が降りてきた。バス停から家族で暮らすJR東日本南小泉社宅(若林区)までの帰り道。一緒に出
迎えた母蘭さん(37)と3人の時間になった。
 あの日、ひかりちゃんは若林区荒浜地区の自宅にいた。祖父とさくらさんと一緒だったが、大きな地震に
こたつに潜り込み、「怖い」とおびえた。職場から戻った両親と約2キロ内陸の七郷中(若林区)に避難。そ
の直後、家は津波にのまれた。
 「学校は人がいっぱい。ぱんぱんだったの」。ひかりちゃんは避難時の記憶をたどる。ただ、津波のこと
は思い出したくない。「その話はやめて」。耳をふさぐ。変わり果てた荒浜の景色は、まだ目にしていない。
 今は社宅に家族5人。津波の心配もない。本来、人懐っこいひかりちゃん。この仮設住宅には知り合い
もいて、表情もだいぶ明るくなった。
 
<家族を思いやる>
 
 震災直後は「布団の中で、おうちに帰りたいと泣いていた」(蘭さん)という。最近は家族を思いやってか、
こんな言葉も飛び出す。「ひかりが荒浜の家のローンを払うんだ」 取材先の仮設で、小学生の子どもが「
家の間取りを書くようになった」と母親から聞かされたことがある。「この部屋はじいちゃんとばあちゃんの
で…」と目を輝かせて話すのだという。家族がそろう「わが家」を求めるのは、大人も子どもも同じだと感じた。
 中国出身の蘭さんは震災後、福島第1原発事故の影響を心配した両親から帰国を促された。しかし、家
族で一緒に日本にとどまると決めた。
 
<間借り校舎、姉と>
 
 4月からひかりちゃんを通わせる小学校も選択を迫られた。
 姉さくらさんが通う荒浜小は津波で被災。東宮城野小(宮城野区)に間借りする。スクールバスでの登校
になるため、ひかりちゃんの友達の中には、現在の住まいから近い学校を選ぶ子も多い。
 それでも、「姉妹一緒の学校に」と家族で決めた。新入生はひかりちゃんを含め4人の予定。ちょっぴり寂
しいが、ひかりちゃんは入学を心待ちにする。
 津波は大事な物を全て奪った。新1年生になるひかりちゃんは、心に決めていることがある。
 「ひかりの写真ないの。だから、ことしはいっぱい撮るの」
 
<メモ>
 
 津波で被災した仙台市内の学校は、小学校のみで3校。荒浜小(若林区)は東宮城野小(宮城野区)、
東六郷小(若林区)は六郷中(同)、中野小(宮城野区)は中野栄小(同)を間借りし、授業を行っている。
仙台市教委によると、間借りは新年度も継続するという。
 


仙台(4)「混在」の中で/近所付き合い、徐々に
 
 

河北新報2012年02月17日金曜日 
 
 
<当初25世帯のみ>

 顔の見える付き合い。仙台市で最大規模のあすと長町仮設住宅(太白区)では、それが簡単にはいかな
かった。
233戸に約450人。人数が多い上、宮城県外を含め市外からも多くの被災者が身を寄せたからだ。
 自治会や町内会ではないが、住民組織として有志10人の呼び掛けで「あすと長町運営委員会」が結成
されたのは昨年8月。コミュニティーづくりや環境整備を担う。
 「初めはゴーストタウンのようだった」。若林区荒浜地区から5月に第1陣で移った運営委の鈴木良一会
長(69)が振り返る。
 第1陣の入居はわずか25世帯。コミュニティーの維持を目的に市が当初設定した「10世帯以上」といっ
た入居条件や沿岸部から遠い立地を、被災者が敬遠したからだ。
 
<ルール守られず>
 
 程なく市が単独世帯の入居を認めると、市外からも人が集まった。
 しかし人が増え、住民間のコミュニケーションがうまく取れない状態が続いた。元いた場所が異なる住民。
ごみ出しのルールなども守られなかった。市外からの入居者はそもそも市のルールを知らない。安心して
共同生活を送るには意思疎通の場が必要だった。
 市内の仮設住宅では7月から自治会などが次々と結成されていった。支援者と仮設住宅をつなぐ窓口が
でき、支援も受けやすくなった。ある自治会の役員は「イベントなどに顔を出してもらうことが孤立防止の一
歩にもなる」と話す。
 現在、あすと長町仮設住宅では7割を超える175世帯が運営委に加盟する。六つのブロックがあり、そ
れぞれに「世話役」のブロック長が複数いる。チラシや物資の配布などを担当し、運営委をサポートする。
 運営委は災害時に備えるため、65歳以上の高齢者や障害者らがいる「要援護者」世帯を把握するアン
ケートも実施。陶芸や語学など11のクラブ活動ができ、集会所を会場に活動する。
 「こんにちは」「どこに出掛けるの」。仮設内で少しずつ、あいさつや立ち話が増えた。
 
<一緒に買い物も>
 
 ブロック長の一人、主婦遠藤きみ子さん(76)は石巻市鮎川地区で被災した。漁業を営んでいた。仮設暮ら
しは半年。集会所にもよく顔を出す。
 「大きいワカメを育てていたとか、地元の話もするの」と遠藤さん。今は一緒に買い物に行く「ご近所さん」も
できた。
 被災で余儀なくされた慣れない土地での暮らし。そこでも新たな近所付き合いが、少しずつ深まっている。
 
<メモ>
 
 仙台市のプレハブ仮設住宅18カ所のうち、自治会または町内会があるのは16カ所。あすと長町の運営委
は総会の開催で役員の承認を得ていないことから、自治会とはみなされず有志の組織の扱い。プレハブ仮
設住宅以外ではJR東日本南小泉社宅(若林区)で自治会を結成。NTT東日本社宅(泉区鶴が丘)は既存
の町内会に加入する形を取っている。
 
 

仙台(5)「地縁」を頼って/心の壁消え歩む力に


 河北新報2012年02月20日月曜日
 
<3カ月後に復活>

 毎月1回、仏事のない「友引」の日を選んで高齢者が集まっていた仙台市若林区荒浜地区の「友引の会」。
荒浜地区が津波で大きな被害に遭った後も、地域の行事として続いている。
 復活したのは、震災から3カ月後。荒浜地区の住民が多い荒井小用地仮設住宅(194戸)が新たな会場
だ。震災で住む場所がばらばらになっている住民をつなぐ場になっている。
 毎回50人ほどが集まる。歌やお茶飲みを楽しむ仲間が少しずつ増えている。地元の人と会えるのはうれ
しい。荒浜地区に住んでいた佐藤初男さん(71)、芳子さん(64)夫婦は毎回、欠かさずに通う。
 
<一時は疎外感も>

 2人が暮らすのは、同仮設住宅にほど近い若林区内の借り上げアパート。初男さんが避難所で体調を崩し
たため、少しでも早く落ち着ける場所をと入居を決めた。リフォームしてまだ5年ほどだった自宅は、あの日、
黒い波にのみ込まれた。
 荒浜地区では、地元町内の老人クラブの会長を務めていた初男さん。芳子さんもパークゴルフを楽しむな
ど、夫婦それぞれ外へ出掛けることが多かった。
 地域住民の多くが住む仮設住宅ではなく借り上げアパートを選んだことで、何となく疎外感のようなものを
感じたこともあった。それでも、「こっちからみんなのいるところに出向こう」と仮設住宅にも足を運ぶようにな
った。
 市内で借り上げ住宅を選んだ被災者を取材した際、「情報が来ない」「仮設にばかり物資が行く」といった
不公平感を訴える声をよく聞いた。「仮設には顔を出しにくい」と目に見えない「壁」を感じている人もいた。
物理的な距離が、被災者同士の心の距離にもなったように感じた。
 
<「将来も続けば」>
 
 この日の会は、みんなでゲームを楽しんだ。童謡「でんでんむし」を歌いながら、左右の手で「グー」と「チョ
キ」を入れ替え、隣の人とカタツムリの形を作る。
 「右はグーだよ」「あれ、おかしいな」。笑いが絶えない大きな輪。「昔なじみと会えるのはやっぱりいい。将
来もこのつながりが続けば」と初男さんは願う。
 参加者は毎回、次の集まりを楽しみにするが、仮設住宅にいない佐藤さん夫婦はなおさら。集団移転に加
わり、移転先で新しい家を構えるつもりで、先日発足した移転先のまちづくりを考える協議会にも参加している。
 昔からの地縁。その絆が、震災後も前を向く力になっている。
 
<メモ>
 
仙台市が受け付けた市内の被災者の借り上げ仮設住宅は、プレハブ仮設住宅(1505戸)より多い8591世
帯。このほかに市外から入居しているケースもある。入居期限は現在、プレハブ仮設住宅と同様に2年となっ
ている。市社会福祉協議会が訪問やサロン活動を展開するなど、借り上げ仮設住宅の被災者の孤立を防ぐ
取り組みも始まっている。
 
 

仙台(6)障害者の暮らし/集会所通い笑顔戻る


 
河北新報2012年02月21日火曜日
 
<「体操の先生役」>
 「栄ちゃん、いってらっしゃい」
 声に送り出されたのは、知的障害がある堀江栄さん(25)。朝、自分が暮らす七郷中央公園仮設住宅
(仙台市若林区)を出た後、敷地内の集会所を経由して職場に向かう。
 出勤途中、集会所に立ち寄るのは、午前8時半からのラジオ体操が日課だからだ。
 堀江さんはおばあちゃんたちの先生役。自分で体操をしながら、「ちゃんとできているかな」というような
表情で見守る。「先生役を任されてからは張り切っている」と堀江さんの母(53)は話す。
 若林区荒浜地区の自宅は津波で浸水し、職場の知的障害者授産施設「まどか荒浜」は全壊。生活の場
を一瞬で奪われた。
 避難所生活は約3カ月に及んだ。間借り先で再開したまどか荒浜にもしばらく通えなかった。体を動かす
のが好きな堀江さんには避難所生活は苦痛だった。過食気味になり、折り紙をして気を紛らわすのが精い
っぱいだったという。
 仮設住宅に入ると様子は一変した。人見知りしない堀江さんは集会所に通い、体操やお茶飲みに加わっ
た。「借り上げ住宅にいたら、こんなに外に出ていなかったと思う」と母は喜ぶ。
 
<表情明るく変化>

 堀江さんと同じく、まどか荒浜に通うダウン症の安達崇さん(26)も集会所の常連だ。
 昨年6月、同区荒井小用地仮設住宅で安達さんを取材した。その後、久しぶりに見かけると、以前より表
情が明るく、口数も多くなっていた。うれしい変化だった。
 荒浜地区の自宅は津波で流失。環境変化から安達さんは髪をむしるなどの行動が続いた。
 職場に復帰してからは落ち着いたが、さらに変化が現れたのは昨年10月ごろ。母幸子さん(52)の職場
に買い物に出掛けたり、集会所に顔を出したりするようになった。
 自宅と職場の往復以外に「止まり木」ができた。職場へのバスが来るまで、住民と立ち話もするようになっ
た。荒浜地区からの知り合いも多く、すぐになじんだ。
 
<地元住民が理解>

 堀江さんと安達さんは、普段から地域との触れ合いがあった。地元の住民が障害を理解していたことが、
震災後の環境変化に適応する手助けをしたのではないかと取材で感じた。
 安達さんは週末、自宅より集会所で過ごす時間が長いという。
 「よく見ていたテレビもそっちのけで、ほとんど集会所なの」。幸子さんはうれしそうに、それでいてちょっぴ
り寂しそうに教えてくれた。
 
<メモ>
 
仙台市は、団体申請を条件としていたプレハブ仮設住宅の入居について、障害者や高齢者がいる世帯に
ついては途中から単独入居を認めた。借り上げ仮設住宅の入居を断られるケースなどがあったため。認
知症の高齢者などを対象とした福祉仮設住宅は昨年8月、あすと長町(太白区)に完成。現在2棟
(定員18人)に17人が入居し、介護職員が常駐する。


仙台(7)支える人たち/相談、訪問 通じ合う心
 
 

河北新報2012年02月22日水曜日
 
<短期交代に嘆き>

 「相談に乗ってくれた臨時職員を、なぜばっさり切ってしまったの」
 仙台市若林区の仮設住宅に暮らす女性(64)は嘆く。被災した自宅へ戻るめどが立たず、沈みがちな自
分を支えてくれた人が急にいなくなった。
 若林区は2月、区が独自に仮設住宅に常駐させていた臨時職員9人のうち7人を交代させた。臨時職員
は震災の約2カ月後から、避難所運営のほか仮設住宅での自治組織づくりや運営をサポートしてきた。地
震や津波で自宅を失った職員もいて、心が通じ合う部分もあった。何より、苦しかった避難所生活を共にし
た絆があった。
 交代について若林区は「地方公務員法の規定で更新しても最長1年。仕方ない」と説明する。ただ、新た
な職員の雇用も年度内いっぱいの予定。短期間の交代は住民との意思疎通が「細切れ」になる難しさがあ
る。
 取材では、懸命に被災者に寄り添おうとしていた臨時職員たちの姿が印象に残った。
 例えば、ボランティアから住民に贈られた縁台は外に置くよう促し、住民間の交流が図れるように配慮。
怪しい訪問販売員にはすぐに退去を求めた。願いを聞き入れるだけでなく、自立のために住民の要求を
断ることもあった。信頼関係があったからこそできたと思う。
 
<心強い「見守り」>

 若林区以外のプレハブ仮設住宅や公務員住宅では、一般社団法人パーソナルサポートセンター(PSC、
青葉区)の「絆支援員」が見守り活動を担う。
 昨年9月から支援が入る青葉区川内の国家公務員住宅。スタッフが手分けして約120世帯を戸別訪問
して回る。
 「巡回は心強い。近所付き合いはまだまだなので、話し相手になってくれるのもありがたい」と、石巻市か
ら単身で公務員住宅に移った木村康子さん(64)。いつも笑顔で絆支援員を迎える。
 
<孤独死の防止も>

 仮設住宅に比べ生活が把握しにくい公営住宅では、戸別訪問が大きな意味を持つ。絆支援員の佐藤ゆ
かりさん(46)は「体調の変化など表情を見て分かることもある」と言う。
 昨年末にはPSCのスタッフらが太白、宮城野、若林の3区の仮設住宅で具合を悪くして倒れていた住人
を発見、「孤独死」という最悪の事態を防いだケースもあった。
 仮設住宅の入居期限は原則2年。市は「今後は仮設退去後の自立に向けたサポートも必要。就労支援
などにも力を入れたい」(市民協働推進課)とするが、1995年の阪神大震災では仮設住宅の解消に5年
を要した。今回の震災でも、2年後に全ての仮設住宅が解消できない可能性もある。
 被災者の気持ちが折れないようこれからも支える。継続的な支援が求められている。


仙台(8完)女子会/悩みを共有、心の憩い

 
河北新報2012年02月23日木曜日 
 
<区職員も交えて>

 はやりの「女子会」が仮設住宅にもある。
 「家が狭くて寝る時、こたつ片付けているの」「うちは狭くてお客さんに上がってって言えないよ」。ちまたに
ある女子会同様、悩みを打ち明けられるのが醍醐味(だいごみ)だ。
 仙台市宮城野区の岡田西町公園仮設住宅で開かれる月1回の女子会。今月4日は、40〜70代の住民
に加え、宮城野区職員も参加。いなりずしや手作りの漬物が並ぶテーブルを25人で囲んだ。
 この日は、「近所付き合いに生かして」と区職員が用意した性格診断テストで盛り上がった。
 女性は心理テストや占いが好き。「行動は慎重派」など4タイプに分かれた診断の結果に「私そういう所あ
るある」「そうかな」と大笑い。
 
<表に出ない思い>
 
 ただ、後半は、にぎやかな空気が一変した。居合わせた区職員に将来への不安を訴える参加者が相次
いだ。
 「津波が襲ったのに、住めるって言われても…」「(移転できる場合に)子どもや孫に土地を残したい。借
料の免除について教えて」
 同区南蒲生地区で津波被災した住民が多い岡田西町公園仮設住宅。南蒲生地区では大半の世帯が市
の「災害危険区域」の指定から外れ、現地再建が可能になったものの、移転を望む住民にとっては不満が
募る。
 住民説明会などを取材した際、会場の発言は男性が中心だった。女子会に顔を出すようになって、女性
にも普段は表に出せない思いがあったのだと知った。「復興には主婦の意見も大切。ちゃんと聞いてほし
い」と訴えた言葉が今も耳に残る。
 
<前向く力もらう>
 
 女子会に毎月参加している主婦鈴木しげ子さん(62)は、会場で思い切って区職員に悩みを相談した。
 鈴木さんの南蒲生地区の自宅は津波で流失した。移転先での住宅再建を望むが、資金の工面に頭を
悩ませる。自宅の土地の買い上げについて尋ねたが、「危険区域外の買い上げは現状では難しい」との
回答。「家を建てる資金にしたかったのに…」と肩を落とした。 普段のちょっとした会話がきっかけで、将
来への不安が湧き起こるときがある。震災から1年がたとうとしても何も解決していない現実を突き付けら
れる。
 そんな鈴木さんにとって、女子会は大切な「居場所」だ。「悩みを話せる人がいる。ここの仮設住宅に入っ
て良かった」と思い、前を向く。
 来月の女子会は3月3日のひな祭り。幹事の鈴木さんは、楽しめる場をつくろうと、あれこれ思案を重ね
ている。(報道部・佐々木絵里香)
 
<メモ>
 
宮城野区岡田西町公園仮設住宅の女子会は昨年秋に誕生した。月1回の定例会は第1土曜日に開かれ
る。会費は500円で、幹事は持ち回りになっている。NPO法人と連携した飾り作りなどの内職も行う。この
ほか若林区のJR東日本南小泉社宅には自治会の婦人部があり、サロン活動などを行っている。


 
 

 

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